ネコの目から見た世界
アーティストのソール・スタインバーグとチャールズ&レイ・イームズによる作品は、数十年の時を経て家庭やポップカルチャーに浸透しています。ミッドセンチュリーに彼らが育んだ友情は、その関係を象徴するような、手描きのスタインバーグ・キャットが座っているシェルチェアを生み出しました。
Story by:サラ・アーチャー
All Eames photography:イームズオフィス提供
All Steinberg artworks and photography © The Saul Steinberg Foundation/
Artists Rights Society (ARS), New York
1950年の夏、ソール・スタインバーグは、映画『巴里のアメリカ人』にジーン・ケリーの手元のカットで吹き替え出演するためにロサンゼルスを訪れました。同作のプロジェクトには早々に興味を失ったものの(彼はこのスタジオが手掛ける映画作品を「テクニカラー版のミュージカルなんて実にくだらない」と非難しました)、同じくアーティストである妻のヘッダスターンと共にしばらくカリフォルニアに滞在し、イーゴリ・ストラヴィンスキー、ジーン・ケリー(映画はともかく主演男優とは気が合ったようです)、クリストファー・イシャーウッド、ビリー・ワイルダー、オスカー・レヴァント、そしてチャールズ&レイ・イームズ夫妻と交流して過ごしました。チャールズは当初スタインバーグに、ドローイングで実験映像作品を撮る提案をしました。映像化のアイデアは結局実現しませんでしたが、その代わり、スタインバーグがイームズスタジオを訪ねたことでいくつかのアート作品が生まれました。その中のひとつは、曲線的な裸婦像が描かれた試作品のファイバーグラスラウンジチェアなど、イームズ家具をバックドロップ幕の前に配置したアッサンブラージュ作品です。ファイバーグラスのシェルチェアにも同じように背もたれに体を預ける裸婦が描かれたほか、別のシェルチェアには、妙に表情豊かなネコが座面の上で穏やかに眠る様子が描かれました。あの不朽の名作の誕生です。
イームズスタジオの家具のどれにでも絵を描けた中で、なぜシェルチェアが選ばれたのでしょうか。1950年当時、ハーマンミラーが発表したばかりのシェルチェアは、それまでにない画期的な新製品でした。イームズ夫妻は成型プライウッドで有名だったため、一体型シェルチェアも成型プライウッドで試作したものの思うようにいかず、かわりにファイバーグラスで実験してみることにしました。金属のプレス加工も試しましたが、ニューヨーク近代美術館で開かれる企画展「International Competition for Low-Cost Furniture Design(低コストファニチャーデザイン国際コンペティション)」への出品を視野に入れていたため、製造コストがかかりすぎる金属製の採用を見送りました。そうしてファイバーグラス素材のシェルチェアは生まれ、プラスチックのシングルピース座面を採用した史上初のチェアとして世の中に登場しました。もともと家庭向けを想定して設計され、落ち着いた3種類の色で発売されましたが、学校、オフィス、空港、レストランなど至るところに普及し、幅広い鮮烈なカラーバリエーションが展開されるようになりました。包み込むような形状は今でこそ誰もが見慣れたものですが、直線的なサイドチェアが一般的だった当時の感覚からすれば驚くほど曲線的なデザインでした。スタインバーグがその形からインスピレーションを得て、愛すべき曲線的な生き物たちを描きたくなったのも不思議ではありません。
アーティストの視点
スタインバーグとイームズ夫妻は、型にはまらないクリエイティブ感覚だけでなく、「常識的な視点を疑う」という共通の姿勢を持っていました。写真家ジュリアス・シュルマンが1958年に撮った写真には、キャンドルや旅先で集めた品々、カラフルな枕に囲まれ、自宅のリビングルームの床に座るチャールズ&レイ夫妻の姿があります。天井からは、1930年代にニューヨークでレイに抽象表現主義絵画を教えたハンス・ホフマンの作品がぶら下がっています。イームズ夫妻は作品を通して、世の人々に、スケール、配置、素材、身体感覚を問い直すことを促しました。1977年制作の短編映画『Powers of Ten(10の累乗)』では、ピクニックのランチを見下ろす画面がズームアウトし続け、街路、都市、大陸、惑星、たくさんの銀河までを視野に収めた後、今度はズームインし続け、ついには分子や原子のレベルにまで至ります。夫妻には「普通」とされる事柄に対し熱心に疑問を投げかける姿勢があり、それが自由な革新の力になっていました。
『Powers of Ten』発表の1年前、ソール・スタインバーグの「View of the World from 9th Avenue(9番街からの世界観)」が、The New Yorker誌1976年3月29日号の表紙を飾りました。この窓からの眺めは、マンハッタン地元民の偏狭さに対する愛情をこめたパロディーと解釈されるのが普通ですが、そうではなく、地元在住のネコから見た近隣の世界として解釈することも可能です。ホーボーケンより向こうの空の下にある野生の世界のことなど、ニューヨークの人はよく知らないのが普通でしょうし、まして、ニューヨークのネコは決して知らないでしょう。しかしネコは、賃貸住宅の窓から何時間も観察していられる近隣の風景については人間より詳しいかもしれません。
スタインバーグは、そのキャリアを通じて無数のネコを描き続けたアーティストで、その表現方法は写実的なものから、魚をブリーフケースのように持ち運んだり、足を組んで静かにつろいだりしている擬人化されたものまで、実にさまざまです。また、彼は熱烈なインドア派でもありました。そのことは、インテリアや窓からの眺めを描いたドローイングを見てもはっきりと伝わってきます。イームズとのコラボレーションと同じ1950年、スタインバーグは、愛されながらも短命だった雑誌Flairの3月号と9月号のために写真作品を制作しました。その3月号の回では、「Portraits by Steinberg(スタインバーグによるポートレート集)」と題した作品群の中で4匹の「ネコ」を描写しています。これらの「ネコ」は実際にはフットスツールなのですが、キャットチェアをよくご存じの方であれば、これがどのように使われたかお分かりになるかもしれません。
スタインバーグは、4脚のフットスツールを部屋の隅に配置しました。まるでネコが集まったかのように、2つは4本脚で立ち、1つは仰向けになり、もう1つは、短辺で立ち上がって壁に背中をつけ、脚を室内へ向けた格好です。そして、スツールの周囲の壁に体の足りない部分――大きな頭部、ぼんやり考え事をする人物のような様式化されたヒゲ、口、目、不意に飛んできそうな大きな尻尾――が描き足されています。1匹のネコは寝転んで脚を空に向けていて、もう1匹は、まるで壁にもたれて座る人間のようです。ばかばかしくてシュールな場面であるにもかかわらず、見慣れた物体を再解釈して忠実なスケールで使っているため、きわめて明確に理解できるところが実に巧妙です。フットスツール自体は特にネコを連想させるものではありませんが、4本の脚があって大きさもほぼちょうどよく、材料が揃っています。人間とは微妙にスケールが違う世界で、小さな昆虫よりは大きく、そびえ立つ高層ビルよりは小さい、「10の累乗」における一つの指数的段階を占めています。
Flair誌のもう一方の掲載号(1950年9月号)では、「The City by Steinberg(スタインバーグによる街)」と題した一連の作品を発表しています。その中に、細長いタンスを巨大な超高層ビルに見立てた写真があります。タンスの引き出しを底部では大きく、高いところでは小さく引き出すことで、建築物の上方が細くなっていく形を表現しています。ここで彼が扱っているのは生物の種や形ではなく、スケールです。雑誌読者の視点から見ると、タンスが巨大な建築物のようでもあり、逆に考えれば、小さいスケールの街に小さい人間(たとえばネコサイズの)がいるようでもあります。
後年のドローイング作品「Looking Down(ルッキング・ダウン)」(1988年)では、真っ白な部屋の窓際に1匹のネコが座り、ジグザグでギザギザで色鮮やかで、ノンストップでエキサイティングな街の景色を見ています。一角には、逆さまになったような書店のビルが見えます。類似性がある作品として、遊郭の窓からお祭りの様子を見つめるネコの姿を描いた、歌川広重の有名な浮世絵「浅草田圃酉の町詣」があり、スタインバーグはそこからヒントを得たとも考えられます。浮世絵の窓辺には飼い主のお椀と手ぬぐいが置かれ、ネコは、自分が観察されていることには気づかない様子です。これは、1988年頃のスタインバーグ自身がしていたことではないでしょうか。喧騒の中へ出かけていくのはあまり気が進まなくても、窓辺に腰掛け、街の灯りや往来を見下ろしては興味深く観察していたかもしれません。
仲間たちの輪
スタインバーグとイームズ夫妻には、視点、スケール、形状、感覚の可能性を楽しく探りたいという共通の願望だけでなく、戦後アメリカにおける文化的エリートの洗練された環境に居場所があったという共通点もありました。スタインバーグが描くNew Yorker誌の表紙は有名でしたが、New Yorkerの読者と、読者ではないが表紙は知っているという層を除いては、さほど認知されていませんでした。結構な知名度には違いないとしても、世のマジョリティが知っていたわけではないのです。その点はイームズ夫妻も同じでした。デザインに強いこだわりがある人々の間では「20世紀デザインのアイコン」として大変な評価を受けていたものの、当初は、誰もが知っている名前ではありませんでした。
1949年、Harper’s Magazine誌に、文化評論家ラッセル・ラインズによる記事「Highbrow, Lowbrow, Middlebrow(ハイブロウ、ローブロウ、ミドルブロウ)」が、スタインバーグの挿絵入りで掲載されました。3種類の品位を持つ人々を描いたこの挿絵は反響を呼び、2か月後のLife Magazine誌に掲載されたある記事には、分類をさらに細分化した図解(作者はスタインバーグではない)が添えられました。未だにSNSでシェアされ続けているというのは何とも笑える話ですが、その図解を見ると、ラインズの「ハイブロウ」分類に相当する最も高尚な家具として、イームズのLCMサイドチェアが挙げられています(注:ハーマンミラーは、New Yorker誌やその他のエリート層向け刊行物にイームズ家具の広告を掲載していました)。イームズチェアは、戦後初めての近代的なステータスシンボルになったといってよい存在であり、この当時、目が肥えた人のさりげない品の良さを示す非言語的シンボルだった(現在もそうである)ことがわかります。
スタインバーグは、1968年に受けたインタビューで、もしもネコがアーティストであったら…と質問され、「ネコはきっと自分の周囲の人々の事情をあまり気に留めないアーティストでしょうね。物事をやり過ごし、周囲の人々と深くかかわらずに生きているでしょう」と語りました。彼はアメリカでは成功を収めましたが、第二次世界大戦中にヨーロッパの2つの国から逃げ出し、反ユダヤ主義とファシズムの脅威の高まりを逃れてこの国に至った道のりは、決して楽なものではないはずです。訳知り顔をした彼の作品や、身近な友人たち、仲間たちがそんなことを感じさせないとしても、スタインバーグは、幼少期や若者時代を過ごしたルーマニアとイタリアの習慣も文化も通じない国に馴染むために、何十年という時間を費やしました。他人とは一定の距離を保ち、それでいて熱心に観察しようとする姿勢が身に着いたのは当然かもしれません。
そんな話が、イームズチェアの上でくつろぐネコにつながります。ネコたちの超然とした用心深い態度と、快適さを追求する性質は、優れたデザインの裁定者として適任でしょう(自分で願ったわけではないとしても)。そう、部屋の中でいちばん重要な家具の上に居座るのは、ネコにとっては当然のこと。イヌにはできない行動なのです。