デザイン界の上層部は男性が多いため、デザインの歴史は男性デザイナーの視点から語られることが一般的です。その理由は多くありますが、おそらく凝り固まった性差別がその最たるものと考えられます。しかし、この集まりから女性を排除することは、まったく不可能なことです。
ミュリエル・クーパーは、私にとって一流の20世紀のグラフィックデザイナーですし、ジャクリーン・ケイシーもそうです。そして日系アメリカ人のトモコ・ミホも一流デザイナーのひとりに挙げられます。トモコ・ミホは思慮深い作品を生み出すグラフィックデザイナーで、デザイン界の重要な人々と肩を並べます。
優れたデザイナーの集団に彼女が加わったのは、ヨーロッパのモダニズムと空間における面に精通する日本の知識とを併せ持っているからです。彼女のポスターやカタログ、ロゴ、建築サイネージはそのすべてがグラフィックコミュニケーションとして完璧に機能しているだけでなく、まるで唯一可能な方法でデザインしたかのように、自然な品位も備えています。
ミホは、テキスト、イメージ、背景、前景、マテリアルのすべての要素のバランスを取ることでこれを成し遂げ、見る人に調和のとれたバランス感を与えていますが、それと同時に非常に明確に、意図するメッセージをうまく伝えてもいます。2次元のデザインで成し遂げることは、最も難しいとされることのひとつです。
フォルムと空間の関係を彼女が慎重に取り扱っていることは、Omniplanのロゴで見ることができます。このロゴは、1967年にテキサス州の建築家の事務所のためにデザインされたもので、実際はまったくの平面でありながら3次元のようにも見えます。いつ見ても凹凸が見えるのです。さらに、ペーパーウェイトや彫刻といった3次元の物体に作り上げると、様々な視点から見て楽しむことができます。
彼女の作品は決して主張することはありません。シカゴの著名なグラフィックデザイナーであるジョン・マッシーは彼女のことを「劇的に控えめな表現をする達人」と語っています。しかし、静かで控えめな一連の作品と彼女自身の静かで控えめな性格ゆえに、20世紀の優れたデザイナーを評価する際に彼女は見落とされてきたと言えます。1993年にAIGAメダルを受賞しましたが、デザインライターのヴェロニク・ヴィエンヌが言うように、いまだに「デザイン界で最も秘密に包まれた」ままです。
おそらく、パールハーバー直後に日系アメリカ人として育つ難しさが自己顕示欲のなさにつながっているのかもしれません。ミホは1931年にロサンゼルスでトモコ・カワカミとして生まれました。両親は花屋を営み、多くの日系アメリカ人と共に一家は強制収容所に送られました。
晩年のミホは収容所の話をすることはあまりありませんでしたが、「多くの日系アメリカ人が新たな領域を探し求めることを余儀なくされた」体験について語ったことが記録されています。そしてこれが、まさにミホが行ったことでした。カリフォルニア州パサデナのアートセンター・カレッジ・オブ・デザインで工業デザインを学び、そこで夫となるジェームズ・ミホと出会いました。
卒業後二人はヨーロッパを旅し、目の当たりにしたモダニズムアートとデザインから大きな影響を受けました。トモコはあるインタビュアーに、「アートセンターで学んだことよりももっと自由でありながら体系的な作品をデザインすることに目覚めた」体験を語っています。
米国に戻ると、トモコはグラフィックデザイナーのジョージ・チャーニーに会い、そこで彼に、ジョージ・ネルソンのオフィスでクリエイティブディレクターをしているアーヴィング・ハーパーに会いに行くように言われました。ハーパーはその場でトモコを雇いました。「そこは、たぶん私のキャリアの中で最も良い職場でした」と彼女は言っています。ハーマンミラーとも長く続く関係の始まりとなりました。
インタビューで、ネルソンのオフィスは「1960年代で最高のデザイン会社でしたし、様々な分野のデザイナーが集まったオフィスでした。ジョージ・ネルソン自身はその当時大きな影響力のある建築家兼デザイナーであり、デザインに関する偉大なライターでもありました。著書のTomorrow’s Houseで収納システムに関する新しいアイデアを執筆したことで、ハーマンミラーが興味を抱き、ネルソンをデザインディレクターにしたのですから」と語ります。
この当時、トモコの同僚のひとりに、グラフィックデザイナーのランス・ワイマンがいました。ワイマンは、1968年メキシコ五輪のリードデザイナーとして不朽の名声を得ています。その当時の彼は、仕事を学ぶ若き青年でした。「私はトモコのことがとても好きでした」と彼は語ってくれました。「彼女は細部と精度にこだわっていました。私は仕事上のちょっとしたミスを隠して、彼女が見つけるかどうかを楽しんでいました。いつも見破られたけどね」
ワイマンは、ハーマンミラーのカタログにおけるトモコの作品を特別に賞賛しています。「トモコとジョージ・ネルソンは、家具のカタログのデザインと機能の定義に大きな役割を果たしたと思っています。明確な表現と正確さが鍵となりました。二人はレスター・ブックバインダーなどトップクラスの写真家を起用していました。今日にいたる二人の影響力というものが分かります」
今日では、ミホとネルソンの恩恵を受けていない家具カタログを探し出すことは難しいのです。彼らは、購入の決定を感情的かつ実際的なものにする彫刻的な質(白地の上にシルエットを描いたり、グラフィックによる構成を並べたり)に重点を置いて、購入の際に不可欠な明確さを組み合わせました。
1970年代前半にメキシコから戻ると、ワイマンはトモコ・ミホと協力して様々なプロジェクトを手がけました。特に有名なものに、ニューヨークのペンシルベニア駅のサイネージシステムがあります。ワイマンの力強く明確なグラフィックのアプローチが、トモコの控えめでモダンなミニマリズムとかみ合うことで、機能的でありながら美的に洗練されたものを生み出したのです。
トモコはネルソンのオフィスで4年間働き、最終的にグラフィックデザイン部のトップになりました。しかし彼女の夫がシカゴの広告代理店に就職すると、トモコもシカゴに移りました。そこはジョン・マッシーと出会った街であり、マッシーはその当時Container Corporation of America(CCA)の広告デザイン部兼広報部のディレクターでした。
私はメールでマッシーにトモコとの思い出について尋ねました。「私は、彼女の夫のジミー・ミホを通してトモコに会いました。ジミーはContainer Corporation of Americaの広告代理店、N.W.Ayerのシニアアートディレクターでした。ジミーと私はCCAの様々なプログラムで何年も一緒に働いたので、ミホ一家がシカゴに引っ越してきたときに、私はトモコに私が設立したCCAの子会社Center for Advanced Research in Design(CARD)のチームに加わらないかと誘ったのです。トモコは私の誘いに応えて、全国の組織のために私たちが作り上げた様々なデザインプログラムに大いに貢献してくれました」
CARDでは引き続きハーマンミラーのためにも働き、とても有名なものに、イソスペースオフィスシステムのためのレイヤーを重ねたポスターがあります。透明なペーパーを巧みに利用して、オフィスワーカーのために「空間を広げる」システムの機能を表現しました。また、最も称賛された作品であるChicago Architectureのポスターも作成しました。「それはCARDが市と当時の市長リチャード・J・デイリーの支援を受けて開始したプログラムの一環でした」とマッシ―は思い出します。「トモコはシカゴ建築の精神を表現する美しいポスターを作成したのです」
そのポスターは現在MOMAのパーマネントコレクションになっていて、トモコ・ミホを最も雄弁に物語る作品となっています。トモコは、シカゴの有名建築を光の反射で捉えるために、シルバーコートの紙を使用しています。あまり才能のない人であれば、ビル自体のイメージをひとつあるいは複数使っていたでしょう。しかしトモコはシカゴのモダニズムの建造物が、ガラスやスチールと同じ様に光と反射があるものということを詩的に捉えています。
ジョン・マッシーが指摘した通り、「シカゴのポスターは、今も昔も変わらず、類まれなる不朽の名作なのです。それはトモコ・ミホ自身でした。私はいつも同僚たちに『類まれな作品か不朽の名作のいずれかを作ろう』と言ってきました。トモコはまさに生まれながらにして類まれな一流の才能が彼女自身にも作品にもある人でした。その結果、同僚たちや関係者にインスピレーションを与える存在になっていたのです。彼女には作品に面白さや楽しさを加えるちょっとしたユーモアのセンスもあり、それによってその作品を経験する人たちにある種の喜びを与えていました」
CARDを去ったあと、トモコはMiho Associatesという名の会社で夫と共同で働きました。その後1982年にニューヨークにTomoko Miho Designを立ち上げ、そこで一見簡単そうに見える作品の制作を続けました。手がけたプロジェクトの多くは、ハーマンミラーのショールームの照明のインスタレーションでした。
デジタルテクノロジーが現代のグラフィックデザインへの定着を進めるなか、新たに若者たちが20世紀のグラフィックの達人たち、とりわけトモコ・ミホのデジタル化以前の時代の作品を発掘しています。若いスウェーデンデザイナー2名による最新の書籍『Hall of Femmes: Tomoko Miho』は、新世代に対してトモコの作品を伝えるものとなっています。この書籍には、2012年にトモコが他界する少し前に行われた控えめなインタビューも収められていて、オンラインで彼女の作品が広く知られるようになったことと、この短いモノグラフの出版によって、トモコ・ミホの没後の評価が高まることでしょう。
彼女の作品からは、グラフィックコミュニケーションの美と技術、そして記号のディテールを管理するデザイナーの権威が慎ましやかににじみ出ています。ビジネスカードや都会的なサイネージシステム、またはハーマンミラーの有名なカタログのひとつであろうと、ヴェロニク・ヴィエンヌによる心に響く言葉を借りるなら、トモコは「グラフィックスペースの隅から隅まで丹念に手入れしている」のです。
こうした一連のグラフィックの園芸術によって、トモコはグラフィックデザインの殿堂入りを果たします。それにもかかわらず、生まれながらの慎み深さゆえに、トモコが自分の地位を受け入れる必要性を感じているかは疑問です。彼女の場合、気取って賞を振りかざすことは男性に任せ、次の仕事に取り掛かる可能性の方が高いでしょう。